ここに掲載の文書は、Facebook他に、画廊シェーネ主・奧田 聰が投稿した発表年月日の新しい文書順に掲載しています。


2020-4-16

参考:安徳60年代の抽象作品
「走る 連作の為のエチュードNo2」油彩 20号 1963年8月作
1965年国画会賞 受賞作「国歌をうたう」(写真無し)

1960年当時の国民、なかんずく若者達の時代精神は、つまり
戦後10年以上を経て未だ米国の占領下のまま、
旧安保の片務的条約下でまるで「属国」扱いであると
受け止め、不満を持つもの達が多くなり、
この屈辱感解消に向けて、日米両国双方の安全保障を
目指す新安保条約へと改定し、かつ日米両国の緊密化を
推進することを第一義と考えた当時の岸総理は、
基地の使用に関する日本の発言権が解消されないままに
強引に衆議院を通過させて新安保条約の批准に
結びつけようとした。然るに
この政府のやり方に猛反対する学生運動が盛り上がった。
この運動を当時東京芸大在学中に当然のことながら目の当たりにして、正義感と男気に燃える安徳 瑛の「肥後もっこす精神」に何らの影響を及ぼさなかった訳が無い。
1960年安保闘争後、安徳 瑛は、大学院での担任教授であった
故・伊藤廉教授の所属する「国画会」に1965年、
100号の半具象の「国歌をうたう」という
油彩作品を出品し、当時の最年少で「国画賞」を受賞した。
25歳であった。
(実は、私はこの作品の実物を見ていない。安徳自身も
この作品の写真を所有していなかったため、
ここで掲載出来ないのが残念である。
今思うに、もう少し作品について詳細を聞いて
おくべきであったと後悔している。
そこで生前の安徳が私に語った記憶の断片話から
私が推測して今回取り上げた。

安徳によれば、この作品は、夫人の実家の物置に保管して
もらっていたらしいが、
夫人のご実家(安徳死後、夫人から伺った話では、
そこは、横山大観もお気に入りの旅館で
正月には、旅館の離れに宿泊して絵を描いている大観の
もとへ、父親と必ず毎年始めに、晴れ着姿で挨拶に
出向くのが恒例であったらしい)
が倒産し、その後、権利移転手続きや整理解体などの
ゴタゴタの中でいつか行方知らずになったようで
現在の持ち主と作品の状態は、不明である。
実は私はその作品の行方より、この作品の題名が
かねてより気に掛かっていた。

1960年前後の安徳 瑛は、青春真っ盛りでほぼ抽象画を
描いていた時代である。(参考写真添付)
安徳の抽象画の塗り重ねた色彩の面は、安徳自身の裡に
湧き上がる様々な精神的衝動のメタファーとして、
そして線は、眼で見える外形状の物を
観者に連想させるだけで良いという、画家の思想に
重きを置く抽象表現主義に近い絵画であった。
安徳は、子供の頃より壁や土、錆びた鉄などの貴金属の
物質感そして形に限りなく執着して来た。
(安徳 瑛の手記によれば「壁」と題して
「(前文略)、、少年の頃私は見るとはなく眺めた壁の白に
魅せられていた。
(中略)、、落書きの傷も沢山あった。風化と共に
出来たものやひび割れとは
全く異なった深い傷をつくっていた。、、(後略)、、」と
壁の移ろう時間と表情を通して人間の営みを
愛おしむ文章を書き遺している。
思えば55歳で亡くなるまで
抽象から具象へそして色見の変化、スクラッチの多用、さらに
俯瞰構図などの画面構成等に様々な工夫を凝らしながら、
目まぐるしく変遷を遂げてきた。
ただ、安徳の画業に於いて変わらずこだわり続けてきたのは、
この一見非情で硬質な物体物質から
与えられる精神的なものをいかに表現し、そこに関わった
人間達の営みや意識を画面上で、どのように普遍的に
定着させ、絵を観る者達に絶対的なものとして
確立させたいという想いだったと私は考えている。

従って安徳 瑛には、モチーフやテーマそして外形の
印象等にとらわれることなく2次元絵画の限界を
超越するためにより難解な絵画性至上主義の追求へ進む
「純粋抽象主義作家達」の様な道へと踏み込むには、
時間の経過と共に、自身の気質の中で抵抗が生じて
来たのだと思われる。

あの若き日の「国画賞」受賞作がどんな半具象作品で
あったかは、遺された作品などから類推するしかないが
「国歌をうたう」と云う題名をつけたのは、
心の内で、反発を持ちながらも、圧倒的な力の前で挫折し、
なす術を持たず、欺瞞と屈辱を背負いながら、
愛する者達のために臥薪嘗胆、前を向いて
進まねねばならなかったと云うその時代の
多くの若者達の自虐的な精神と傍若無人な権力者達へ
皮肉を込めた想いの表出だったに違いない!

2020-3-22
「私の安徳 瑛論]その2 見えるものと見えないもの 具象と抽象」「我々はどこから来たのか 我々は何者か我々はどこへ行くのか」
私は、初めてこのゴーギャンの絵の題名を美術の時間で知った
15-6歳頃から、常に頭の片隅に残る命題であった。
星空を眺め、宇宙へ想いを馳せる時、ダーウィンの進化論を、
教えられた通り盲目的に当然のように受け入れて来た
私であったが、真実なのだと言う確証は何も持たず、
実感はほぼ無かった。
地球生成から今日まで45億年と言われるが、その推移を
眼の当たりに体験した者はこの地球上に誰一人いない。
地層の構造や構成物、発掘された遺品遺物、
古典籍などなどからその道の専門的研究者や
科学者、哲学者と言われる人達の分析と類推仮説に
従って来ただけなのである。
人は、長くても高々100年位の寿命である。
数億年と言われる人類誕生の歴史の変遷過程の中では、
0.001%にも満たない長さである。
従って、どんなに優れた知能と知恵と学識がある人達ですら
当然のことながら、一人だけでは、この世の事を
何もかも知見予見する訳にはいかない。
然るにこの世界では、見えるものだけを追求していると
真実を見損なってしまう。
見えないものに留意して、多くの人々の叡智を
結集して解明していくことこそ
人類がこの地球に存在する意味があるのかも知れない。
では、「地球上に今、存在している」と
確かに我々が確信出来る「リアリティ」とは、
何なのだろう?
眼に見えない世界への想いが昂じて、
人それぞれの裡に湧き上がる感覚を確かに実感した時、
初めて「在る」と確信出来るものなのだろうと私は思っている。
少しばかりの知識で理解したと考える一時の悦びも、
眼に見えぬ体内に湧き上がる持続的な昂奮に勝るものでは無い!
思えば外見や眼で見えることだけで評価する知識、
知力というものの無力さ無意味さを、実感したのも、
私はこの年頃からだったと思う。
この点でも人類生命の起源について、
必ずしも科学的な実証学とは言えない
ダーウィンの「進化論」説に対し異論を持って
別の観点で解き明かそうとしている科学者や宗教家、
研究者達も多い。もっともな話である。
話が逸れてしまったが、何故ゴーギャンかと言うと、
セザンヌと並んで近代絵画の変遷の過程で、
初期の印象派達の眼に見えるだけの外光第一主義に、
異論を持ち、眼に見えない自身の内面を表現するために
色面と形態を統合することで自身の裡なる観念を
表現しようとしたり眼に見えない感覚を、
ニ次元の平面に「感覚の実現」として表現する
ことこそ絵画の本質と説いたセザンヌ等
ポスト印象主義者の考えは、その後のダダや
シュールリアリズムに繋がっていく。
彼らこそ、安徳 瑛が、強い影響を受けた
キリコ、モランデイ等「形而上学絵画」と云われる
「眼に見えない事物の本質と存在を感覚的に認識」して
表現して見せた画家達に惹かれて行くことになった、
そもそもの源と言えるからだ。
安徳は、手記の中で「、、絵のレアリティは、在ることをどれだけ絵画的にそして衝撃的に成り立たせるかだろう。」と述べている。
自らの絵画の中で追求し苦悩して来た本質がそこに隠されている

安徳の心の裡に現れる想いは、実際には、眼で見えるものでは無く、蠢く抽象体であるのと同様、眼の前で見えていると
思っている風景、静物、人物等々も人間の
脳が学習した概念を取り外すと実に抽象的な物体
としてしか存在しなくなるからだ。

安徳 瑛の一見、具象と思われる作品の多くに、
唐突のように描かれている抽象的形態は、
安徳 瑛には平面というニ次元の世界で統一ある画面を
作り出す為に取り入れる必要のあるモチーフなのだ。
採用することに何等の矛盾もない。

私が、30代初期に安徳 瑛の作品を銀座の画廊から初めて
購入した「花」と云う6号代の小品の油彩画も、白色の絵具が
強いスクラッチによって下地の漆黒が
ところどころ剥き出しになっている背景、
スーと首の伸びた青い花瓶に
感情を押し殺したように楚々と挿されたドライフラワーを
描いた絵で、いわゆる通常の具象画とは異なる
不思議な魅力に惹かれて
極自然に購入してしまったのだ。
安徳 瑛の描く世界がきっとその頃の私自身のうちに潜む具体的表現の出来ない何物かに刺激を与えたからだと思っている。

掲載写真:
安徳 瑛作「サントヴィクトワール」油彩30号 1994年作
安徳手記より:「その日のサントヴィクトワールは、石灰質の岩肌を桃色に
染めていた。所どころにサップグリーンを覗かせる輝いたその姿に、
セザンヌが通い続け試作を重ねた日々を思うと息を呑んで
立ち竦んでしまった。、、」


2020-3-21
ある日の安徳 瑛
「私の安徳 瑛論 その1 白色について」
近頃、私がFacebookで公開している故・画家 安徳 瑛のアカウント
へのアクセスが増えているらしく、FAの管理者から
(AIによる自動分析かも?、、)その旨の報告がよく届く。
中には、安徳 瑛の作品について独自の解釈をしていただける方達が
現れて来たようでもある。
この天才画家の作品をコレクションしたり、展覧会の開催或いは、
画集の刊行を通じて、世間に喧伝推奨して来た私としては、
安徳 瑛とその作品について、侃侃諤諤、多くの方達に、
論じていただけることは、この上なく喜ばしい限りである。
そこで、これまで、様々に浮かんだり気がついたりする度に書き留めて来た
文章などに拘泥することなく、安徳の死後25年を超えた今日
改めて私も私なりの「安徳 瑛論」をもう一度整理熟考して
みようかと思ったのである。
これまで安徳 瑛の作品をお買い上げ頂いた方達も、
又ご覧いただいた方達からも、
総じて私に投げつけられる質問は、「何も描いていない白地の画面」
「点描の様な小さな人物像」「俯瞰構図の導入意図」「静止した様な風景」
「描かれた抽象的な物体像の意味」等々の説明と言ったところであろうか?
安徳 瑛が、そもそも白という色に、強い興味を持ったのは、
戦後まもなくの幼少期、故郷の熊本で、土埃を舞い上げて走り過ぎた
何台ものトラックから積み下ろされた硫安工場の硫安の白い円錐の形状であった。
夏の強い光に反射して、青空を劈くように聳えたその形と色は、
幼少の低い目線から眺めた時、余りにも巨大で圧倒される
強烈な物体であった。それは、一言では言い表せない抽象的な
天の造形物のようにに思えたに違いない。安徳の手記によれば、何度も
自分の使用する絵具の白について、作品を描くたびに語っている。加えて
作品の題名にも屡々「白の何々、、」という名前がついた作品が多い。
1988年に当画廊で刊行した第一画集にも掲載した「私の白」という
安徳自身の文章の中では、次のように語っている。
「私の白というのは、いわゆる空白の白ではない。
それは、他の(もの)を消し去った白、
大切な(もの)を選び取るために省略した白なのです。
又土の(ぬくもり)をもった白、地面にもなり空にもなり、
ありとあらゆる形となって、
存在を主張する白でもあります。」
では、安徳の言う、大切なものとは、何なのであろう?
安徳 瑛にとって、白色とは、時間であり、空間であり、想いであり
又すべての形を共鳴させる形の存在であり、全ての色を統合する
確固たる存在そのもでもあるのだ。
だからこそ、白色こそ、自由で豊かなあの少年時代にまで
想い馳せることの出来る安らぎの時へ帰結する色として
安徳 瑛の絵画制作の根幹となっているに違いない。
安徳の白色には、様々な想いが包含されている。
安徳 瑛のモチーフは、対極にあるものを同列に描くことによって、
画面の統一と共鳴を想起させることで絵画性を成り立たせることに
意味があるのである。
例えば「白と黒」「抽象と具象」「ロゴスとパトス」などなど
対極にあると思われるこの世の事象を、統一ある画面に
整然と作り上げることである。
では、白と対極にある「黒色」の意味は?
点描のような人物の影、陽の当たらない面の建物の影の部分などなど、、
我々が、普通に目にする光景以上に、ひときわ強調するかの如く、
下絵の段階から、影の部分は、強い線と面で何度も様々な筆と道具を用いて、
かなりの時間と神経を使って描いているのだということを、
私は、半日以上安徳 瑛のアトリエでの制作風景の動画撮影を
していた時に気が付いた。
なぜそこまで執拗に、黒色の仕上げに安徳 瑛は、こだわりを見せるのだろう?
安徳 瑛にとって、黒色は純粋に黒色として一つの形を作る色として
存在させることが大事で、あくまでも白色と共鳴させるための色である
必要があるからなのだ。
従って、安徳にとって、黒色は、白色に込める「大切なもの」という
意味合いとは、若干異なるものだと私は、この時はっきり了解したのだった。
安徳 瑛にとって、油彩における下塗りで漆黒に塗りつぶしたキャンバスの
準備は、これから描こうとする作品の中で自身の狙いのテーマに
沿わせるためには 欠かせざる行為なのだ。
今回小文に纏めるには、あまりに言及したいことが次々と湧き上がって
書ききれず長文になってしまったので、今回は、ここまでにして
次回は、安徳の「具象と抽象」「俯瞰構図」などなどについて追々言及したい!
掲載写真:安徳 瑛作「探していた午後の街」100号油彩1986年作

       

<<2019年4月24日>>
♫~「忘れな草をーあなーたにー!!」♫~

シェーネの庭でも、勿忘草(ワスレナグサ)が開花し始めています!
画廊 シェーネのメイン画家 故 安徳 瑛は、
イタリアの画家達、特に14世紀 シエナ派の
アンブロージョ ロレンツェティ他、近代のキリコ、モランデイ、
シローニと言った形而上絵画と言われている画家達から、
多くの啓示を受けた話は、

以前にも書きましたが、自身は、
上記の画家達だけにとどまらず、
イタリアそのものの風土、食習慣、音楽にも、非常な関心を持ち、
又精通していましたので、生前は、何度もこの地を訪れています。
自身のアトリエでは、大抵パヴァロッティのCDを聴き流しながら、
絵を描いていることを遺された制作ノートにも書いています。
私がある日、アトリエを訪ねた時にも、パヴァロッティの唄う
「風に託そう私の歌!」の曲を大音量で流している光景に
出会った事があります!。画廊シェーネの主は、近頃では、
この庭に勿忘草が咲く季節になりますと、
コレクションの安徳 瑛の作品を常時展示しているコーナーの
前に置かれた椅子にもたれながら、
パヴァロッティが唄う「忘れな草」(Non Ti Scordar Di Me)を
聴きながら、安徳 瑛のありし日を回想しています!
安徳 瑛が生前に、この曲を聴いていたかは、定かではありません!!

掲載写真:シェーネの庭の「忘れな草」と「Non Ti Scordar Di Me」を
歌うパヴァロティ

 


<<2018年3月4日>>「ガリ屋」
1988年、当画廊で「安徳 瑛 第Ⅰ画集
(街・丘・風・・・戻り来る日々)」を
刊行した時、当時、武蔵野美術大学の教授で
独立美術協会会員でおられた松樹 路人氏
(2017年12月死亡)が、安徳に関して
寄稿してくださった文章の中で登場した言葉が
「ガリ屋」である。
「・・・(前述略)・・・本業の油彩の実績は、
無論のこと他にパステルや水彩等の指導も
引き受けてくれる人材が必要になり・・・
(中略)・・・躊躇することなく
氏の名を挙げさせてもらったのである。
御当人は未だ知らぬ筈だが、
一方で私は氏のことを秘かに「ガリ屋さん」
とも呼んでいる。知りたがる、見たがる、
聞きたがる、試したがる。
つまり知識欲好奇心旺盛なことこの上もない。
創作に携わる資質としてこれに優るものは
あるまい・・・(後述略)・・・」
そもそも、初めて私が、安徳 瑛に出会って
興味と関心を持ちたちまち惹かれていったのは、
思えば、その特異、巧みな作品の優秀性
のみならず、安徳 瑛が、多方面に
わたる、比類なき正確詳細な知識と情報量を
持ち合わせていた
からでもある。
安徳との会話は、いつも知的で
楽しい時間であった。
従って、安徳から、新作が出来たと
連絡を受けると、今度はどんな作品なのだろう
かと想像する楽しみだけでなく予期せぬ話が
聞ける楽しみも重なり、早速アトリエに
向かったものである。

今、翻って振り返れば、安徳 瑛との会話は、
美術関連が、主ではあったが、音楽や、文学、
政治、経済、スポーツ、動物の生態学、
料理など多岐に亘った。
しかしながら、芸能ニュースというもの
については、私も無関心な為か、
話を交わした記憶がない。
又、家系や、一族の話なども、ほとんど
聞いた覚えがなく、熊本出身の文化勲章受章者
である洋画家「牛島憲之」氏とは、
姻戚関係にあるという話も、熊本で個展を
開催した時、現地の人から初めて
聞いた話であり、美和子夫人の実家が実は、
熱海の由緒ある旅館で
(現在は他に譲られている)
横山大観が、贔屓にしていて、離れの別棟で
過ごす正月には、幼少時に、父親と共に挨拶に
出向いたという話なども、
かなり後になるまで存じ上げなかった。

とかく、自分の家系や、生い立ち、
子や孫たちの成功や立身を得意満面に
吹聴したがる輩が多いのに、
「ガリ屋」の安徳と言えども、
自身のことについては、「話たがり」には
ならなかった。

私は、この安徳の振舞に好感を持ってきた。
我が家の兄弟姉妹の間では、年に何度か
会うことがあっても、親戚や子供、
孫たちの噂話、自慢話などを、
何か特別な事情があり、尋ねられるなどの
ことが無い限りほぼすることはない。
これは、優れたことを行っている他人の話
ならいざ知らず自慢話は、ほぼ無駄口と
とらえる亡くなった両親の姿勢がもたらした
ものであると思われる。
誰が何といっても、私が今日まで、
この稀有な天才画家・安徳 瑛を
応援してきたのも、松樹路人氏が
言うように安徳の創作者としての

「ガリ屋」の資質と態度に同調し
共鳴して来たからに他ならない。

掲載写真:「花咲く日の夕べ」パステル他 20号大

<<2018年1月7日>>
「鹿児島・桜島」

2018年 鹿児島を舞台にしたNHKの
大河ドラマ「西郷どん」が1月7日から始まる。
画廊シェーネのメイン画家 故・安徳 瑛に
とって鹿児島は、安徳の生まれ故郷の熊本と
同様、ゆかりの深い土地である。
そもそも安徳 瑛が画家になることを、
志したのは、安徳が小学生当時に、
熊本市内で「子供絵画教室」
を開設していた、大正~昭和初期に華々しく
活躍した鹿児島出身の洋画家・海老原喜之助
(エビハラブルーは特に名高い)

出会ったことが大きく起因している。
もとより熊本市内で育った安徳は、
町の人達から「神童」と言われるほど、
絵の上手な子
であったらしく、
そんな安徳を、海老原自身は、
人もうらやむほど可愛がったようである。

私も、その頃の海老原をよく知るお弟子さん達
から、何度もそのことを耳にした。
熊本県立の難関の進学校「濟々黌」高校に
安徳が合格した時などは、自分の息子の吉事
のように喜んで他の人達に吹聴したらしい。
私が、全国展開の「安徳 瑛展」を
企画した時、安徳自身が、訪れることを
最も希求したのが、鹿児島であったのも、
恩師・海老原の生まれ故郷であるにも
かかわらず、一度も訪ねたことが無い土地
であったからである。この写真の「桜島」は、
そんな安徳がどうしても、実際に眼で見、
描いてみたかった山であった。
(この作品は、後に安徳が、生涯で
遺した8点のいずれも傑作揃いの山シリーズを
描くことに繋がるキッカケの作品となつた。
)
鹿児島という土地と人々の象徴ともいえる
心象風景である桜島を抜きにしては、
鹿児島のことは語れないと安徳自身が、
考えていたかは定かではない。
しかしながら一般に戦国時代以来、
長い間、肥後国にとって、薩摩は、
まさに天敵の如くの存在であり、
いつ奇襲攻撃仕掛けてくるかも知れないという
脅威に晒されていたので、この両国は互いに、
今日でも若干反目やわだかまりを持つ者がいる。
その事を学習しているはずの肥後人たる
安徳自身も、桜島の存在そのものが薩摩人には、
精神力高揚の源泉であり誇りでもある事を
重々心得ていたものと思われる。
話は逸れるが、今はともかく、かつては、
鹿児島では、「桜島」を居ながらにして
臨めない土地は、価格も安く
販売し難かったそうである。

この写真の作品のために、安徳がスケッチを
した日は、まだ9月後半であったにもかかわらず、
ばかに寒い日であった。
早朝の5時起きの身体には、さらに寒さが
強く感じられ、夏着の用意しかしていなかった、
安徳と私は、仕方なくホテルの浴室に
用意されていた青緑色のタオルを
首に巻いて外に出た。
「磯」庭園前の道路を挟んで向こう側の海岸に
降りることが出来る岸壁に沿ったわずか水際まで
20mほど幅500m位拡がる場所で何人かの
釣り人達が竿を振っている姿を見つけ、
安徳があそこへ行こうと誘うので、
「大丈夫かい!」とは思いつつも
そこまで降りて、玉砂利の多い砂地に、
持ってきたシートなどを敷いた。
早速安徳は、スケッチを始めた。
眼の前の海の向こうの桜島は、
濃い紫紺と漆黒のシルエットだけの姿で、
静かに密かにエネルギーを蓄えて聳えている。
遠くに、イカ釣り漁船と思われる漁火が
暗闇の波間に点々と光っている。
やや山の稜線が明るみ始めた頃、突如として
桜島に轟音と共に噴煙が上がった。
ぎょっとして、二人が見とれていると、
山に架かった雲に光が反射して
錦江湾側の山肌が赤ピンク色に映し出された。
実にほれぼれするほどの美しい光景であった。
私はこの時、初めて鹿児島の土地を踏んだ時に、
砂埃に包まれる鹿児島市内の情景を見て
「どうしてこの地に50万人を超す人たちが
住んでいるのか?」と不思議に思っていた
疑問が解けた。桜島あっての、この素晴らしい
光景こそ薩摩人の誇りなんだと!
のんびりと、眺めていると、ふと気が付いたら、
数メートル先まで水が迫って来ている。
そういえば、あの釣り人達の姿はすでに無い。
満ち潮になる時間なのだ。
安徳を促して慌てて岸壁をよじ登る。
道路に出た時は、もう潮は、岸壁に
打ち寄せていた。
一歩間違えば、危うく二人ともずぶぬれになり、
海の骸となるところであった。
参考写真:安徳 瑛作「ながつきの山」
油彩20号
安徳 瑛作「海老原」ペンと岩彩他

(安徳が描いた唯一の海老原喜之助像)
桜島を見上げる、安徳 瑛

 


<<2017年2月9日>>
「男心」
このところ、Facebookからのお知らせとやらで、
毎日のように
「安徳 瑛について何か投稿しよう!」
という催促状が届く!
大体において、子供のころから、強制されて
何かを行うことや
教室で黒板に向かって、皆一緒におとなしく、
一方的に先生の話に辛抱強く耳を傾け、
納得しているふりをする授業というものに
常に、ほとほと嫌悪感を感じていた私には、
窓の外で本能に基づいて
自由に飛来する鳥達や、虫達の姿が羨ましい
と思っていた。
このお知らせとやらも、私にとっては、
「大きなお世話で、
めんどくさい奴だな!書きたくなった時に、
いつでもその時
書けばいいじゃん!」とは思うのだが、
コンピューターと喧嘩してもしょうがない、
ITの論理に、たまには、合わせてみようかなと
思い投稿しました。
この写真に掲載の「ばけもの柚子」
の小さな水彩作品
は、
ある冬の日に安徳のアトリエを訪ねた時、
本や、文房具、画材等々が
乱雑に置かれていた机の上で
見つけたものである。
手にして眺めていると、「気に入ったら、
奥田さんにあげるよ!」ということで、
結果、私のものになった作品である。
元来、安徳は、気持ちが通じると、手慰みに、
描いたものを、気前よく人にプレゼントしたり、
自分の絵画教室の弟子たちや
飲み屋の女の子達の目の前で、小品を
気楽に描いてそれを贈与する姿を
しばしば目にした。

特に相手が女性である場合が多く、
はがきや手紙の類もお気に入りの女性達には、
よく絵入りのものを送っていた様である。
ちなみに私は、安徳とは文書だけのハガキは、
よく交換していたが、
何故か、カミさん宛のはがきには、
必ず絵の図柄が入ったものであった。
どうやら、安徳のこの行為は、
多くの女性から好感を得たい

というスケベな「男心」そのものに
忠実に従っていただけなのだといえよう。

この点においても私は、安徳 瑛を語る時、
お気に入りの一人の男性から、
自分だけ独占的に深く愛されたいと願う
大概の女性達の持つ特性とは違い、
安徳が、多くの男達の動物的な本性そのものを持った、
極く普通の良識人であり、ほほえましい
好人物であったと今日でも、
懐かしく思い出すのである。

写真:「ばけもの柚子」水彩・はがき大

 


<<2016年1月30日>>
「お尻から分かる身体の衰え」
人の命の終焉の時期を予め長期的に
推測することは、余程の条件が無い限り
なかなか至難である。
私は、今は亡き「ある日の安徳 瑛」の
躰つきを思い出して
「そういえば、あの時の姿が、
実は重病に罹る前兆だったのだ」と
気がつかされたことがあり、以降、
自分自身の躰つきの変化に注視している。
その年、当画廊・企画制作の
「安徳 瑛初画集」発刊を記念して、
全国展開の一箇所として、彼の恩師
海老原喜之助の生まれ故郷、鹿児島で個展
(於:鹿児島三越 美術画廊)を
開催した時のことである。
鹿児島出張の際には、私が最も気に入って
必ず泊まるホテルがある。
「グリーンホテル錦生館」という
ビジネスホテルである。このホテルは、
鹿児島市内の繁華街の近く
(三越まで徒歩5分程)に在りながら
最上階の一階下に、桜島を真正面に望める
天然温泉が完備されているのだ。
もとより温泉好きな私は、宿泊中は、
可能な限りこれを利用する。安徳 瑛と
湯を共にしたのも、ここが最初である。
私は、その日も、いつものようにゆっくりと
桜島を眺めながら湯船に浸かっていた。

安徳は、長湯は、
あまり好かないようで、早々にこちらに尻を向けて洗い場の方へ向う。
安徳のどちらかといえば痩肉の躰の尻姿が
臀部の下の方で、シワが幾重にも重なり、
まるで老人のそれであった。
安徳は、この時まだ40代の半ばで、
日頃から結構遠慮なく軽口をたたける私でも、
このことは、口に出せなかった。
安徳 瑛が55歳で肺ガンで
命を落としたことを考えると、
実は、あの頃から安徳の躰に、病魔は
侵攻し始めていたのではないかと思うのだ。

以来私は、湯に入った時は、
鏡の前で尻の様子を必ずチェックしている。
数年前に脳出血で倒れてから、体重の減少
からくる張りの無い著しく貧相な自分の尻の
変化に恐怖を感じ、時には、サンジン(山の神)さん
にも検診を依頼するが、あまり本気で相手にされない。
今は、日々朝夕のストレツチ運動と
筋力アップに心がけ、
最近は大分我ながらいい感じになつて来てる。
・・・・と思っている・???・・

写真:安徳瑛作「ながつきの山」油彩20号

 


<<2014年3月>>
「富士の絵」
昨年6月、富士山が、ユネスコの世界遺産に、
登録された。
古来より、日本の多くの画家達が、
様々な富士山を描いて来たし、
又富士ほど、プロの写真家からアマチュア達に
至るまで、数限りなく撮影され続け、
或いは、千差万別の工芸品の中で
その勇姿が、取り込まれてきた山は、
皆無と言っても、差し支え無いであろう。
殆どの日本人は、長い外国生活からの帰路、
太平洋上の飛行機内などから、
まず富士の頂きが眼に飛び込んでくると、
心が熱くなることを体験している。
実は、安徳 瑛も、生涯で一点だけ、
富士を油彩で描いている。
それがこの「夏富士」(20号)である。

山を描いた油彩の作品は、この時期にのみ集中し、
8点だけ存在し、いずれもただ単に、
山の姿を描いたというだけのものでなく、
安徳 瑛が、物を見る視点と絵画上のリアリティと
虚構さらに言えば、内的な創作の課題に
特に心砕いたという点で、安徳 瑛の生涯を
語る時に重要である。かつて、
「詩と思想」(土曜出版社刊行)(2001年3月~7月号)の
「美術時評」のコーナーで、この8作品の中の1点、
フランスのサント・ヴィクトワール山を
描いた安徳作品について
「青のサント・ヴィクトワール」と題して
私が投稿した文章を、ご興味おありのかたは、
ぜひご一読くだされば幸甚である。
参照:「安徳 瑛作品評ー青のサント・ヴィクトワール」
この「夏富士」と最初に出会ったのは、
第3の安徳 瑛画集の発刊の打ち合わせのために
アトリエを訪ねた、変わりやすい
秋の曇天の日であつた。イーゼルに挟まれた
この描きかけの作品は、この日の薄暗い
採光のアトリエの中で、真っ黒な塊が
シルエット状に不気味に浮かび上がり、
私は、ドキッとして、画面を凝視した。
何を描いたのか、一瞥した時点では、
全く判別出来ない。
富士を描いていると云われて、なるほど
全体の輪郭から推測するところ確かにそうだ。
しかし、これは、一般人が通常考える
美しい富士ではなく、
地球という母体の腹の底部で
ドック、ドクドク、ドックと
不規則に胎動する怪しげな生命体の塊の
蠢きと叫びに見えたのだ。

大抵の富士を描く画家達は、
わざわざ見目の悪い宝永山の裂けるような
火口をこんなにあからさまに
表現することはない。遠目で見る雪山の
美しく、他を凌駕する富士こそが、
日本一と崇めて描くのに、
安徳は、明らかにそれに逆らっている。
安徳の狙いは、どうやらそこにあったようだ。
私は、その瞬間、おしなべて万物優れたものは、
殆ど、萌芽の時点でその兆しが、
みえると、常づね思っていたので
(この点は、今でも変わらない考えであるが、、)
この作品の完成を待つまでもなく、これは、
安徳 瑛の間違いなく重要な作品の
一つになると確信して、
当画廊の永久収蔵品として
確保することを決めた。

掲載写真:「夏富士」油彩20号

 

2014年1月15日>>
「行き違い」
その日、画廊シェーネから
第2冊目の「安徳 瑛作品集」の発刊したのを
記念する個展
を、当画廊では、
大作を飾るスペースの問題もあるため、
銀座のアートスペースを借りて
開催したときの話
である。
会場に当画廊の顧客で、当時、
美術品のコレクターとして名高い
ある会社の重役
が、来られたので、
早速画家本人をご紹介し、お話してもらった。
「先生の作品のことは、奥田さんから
いつも聞いていて、かねてより
注目して来ました。・・」
安徳は、笑顔で応対する。
ところでなんですなー・・・
先生の作品は、カチッとして心筋梗塞に
なりそうなくらい画面がしっかり
してますなあ~・・」

「おっとと・・」私は、いきなりの、この言葉に
のけぞりそうになった。
顧客は、悪意を持って、発したのでは
決して無く、むしろ好意的に、
安徳の堅牢な画面を見て、
賞賛したのであった。
しかし、
この言葉を聞いた安徳自身は、
「むっと」したのは云うまでも無い。
丁度そのとき、画家の友人が来場したので、
安徳は、早々に話を切り上げて、
そちらに向かって離れてしまった。

この顧客には、これまで色々な安徳の作品を
ご覧いただいていた。「ハッチング」が強く
効いた安徳の若い時代の公園で遊ぶ
子供の絵には、
特に興味を持っていただいていた。
が、最近の作品は、何故か、
どうしても購入していただけなかった。
ところが、この会場で、珍しく4号の
淡い色彩の油彩画を購入して
いただくことになった。

安徳自身は、そのことを知らないまま長いこと、
この顧客を不愉快に思っていたようで、
「勝手に心筋梗塞になれ!」とその時思ったと、
後日語っている。
その日から、20年以上過ぎて、
安徳 瑛もその顧客も今は、故人である。
この顧客の夫人から聞いたところよると、
生前、主人は、数あるコレクションの
中で4号の安徳さんの油彩画を特に
大事にしていて、
訪ねてくる人達に見せては、
自慢してましたよ!
」・・・・・・・
画商というこの商いも永くやっていると、
言葉の行き違いで誤解を
招き、意外な結末になっていることが
明らかにされる時が来る。




 

<<2014年1月>>
「キューブの油彩」
その日は、朝からとてつもなく冷え込んで、
お昼ごろの時間にもかかわらず気温は
上がらず、今にも、白いものが舞い落ちて
来そうな冬のある日でした。
シェーネの主は、一月ぶりに、海老名の
安徳のアトリエを訪問しておりました。
アトリエ改築時に特注したという
安徳お気に入りの北欧製の暖炉の窯には、
私が、入室した時、みるからに心地よい
朱橙色の炎が燃えあがり、
部屋は、普通の上着だけで、十分なくらい
程よい暖かさに保たれ、
安徳は夫人と共に私を待ち、迎えてくれました。
次回の個展に向けての様々な話をして
いるうちに安徳は、突如、暖炉の脇に高く
積み上げられた、普段は処理の為に
銭湯に依頼しているという近所の大工さんが、
溜めた建築端材を、アトリエの暖炉用の
薪にするために分けてもらったらしく、
その薪のひとつを手にすると
「どうだろう、奥田さん?この薪に
描いてみたいと思うんだけど・・・

私は、その思いもしない発想に躊躇無く、
面白そうなのでぜひ制作してみて下さい!
又これで近いうちに訪ねる大きな楽しみが
出来たと内心ほくそ笑んだ。
概ね、画家との付き合いで、アトリエを
訪問をする際完成される作品は、大抵、事前に
予想出来てしまう画家が多いが、
安徳ほど、[作品が出来たよ!・・」と
電話をもらった時点で、

「次は、どんな作品にしているのだろう」と
アトリエを訪ねる楽しみで、画商の心をワクワク
興奮させる作家はまずほとんど居ないと言って良い。
そんな経緯があって後、
最初に見せられたのが、写真掲載の
この「青いキューブ」と題した
(木材に油彩・高さ20.5cm)
作品である。
安徳は、この作品には、ことのほか思い入れが強く、
なかなか完成とは、云わなかった。
よく細部をみると、ところどころに虫食いの穴の
ようなものがあるので尋ねると、
「将来、私も、奥田さんも居なくなって後、
何百年か先になった時もしこの作品が残っていたら、
下地の樹が朽ちたり虫食いになった時、
同化していい感じになる」
というような趣旨の話をしたので
私は,甚く心動かされた。
安徳のこの恣意的な行動が、何百年かの時の
経過の中で馴化されていくのを立証することは
出来ませんが、絵画を見る視点について
考えさせられたのです。
この作品は、現在、画廊シェーネの
貴重な所蔵品になっています。

この作品他、この年から1~2年、
木に油彩で描いた作品を数点以上描き
それらを掲載発行した第2冊目の安徳 瑛画集
「風よ!丘よ!」には、私の友人でもある
詩人の小川英晴君
詩を寄せてくれましたが、その中で、
風化によって、完成に近づいてゆく
風景もあるのだ・・後略
」と
言い切った詩は、用意してくれた小川の
数ある詩の原稿の中でも、
今まで誰も言わなかった言葉だったので、
安徳も私も、この詩を一番気に入り、
展覧会場での展示用にわざわざ
小川の自筆で色紙に書いてもらったりもしました。
数年の後、この作品を見た、
知り合いの建築家の一人が
自分が計画しているビルの外壁を
この作品のように安徳に描いてもらいたい
という話
も持ち上がりました。
が、生憎、その時、すでに安徳自身は、
余命幾ばくも無い癌に侵されていた為に、
実現は出来ませんでした。
木に油彩の作品は、その頃、安徳が教鞭を
とっていた武蔵美でも一時期若い学生達に
少なからぬ影響を与えるなど、
いろいろな意味でこの作品は、
安徳 瑛と画廊シェーネの主
である私との間の絆として今でも、
特別に思い出深い作品なのであります。
掲載写真:「青いCubo」油彩・木


 

<<2013年10月3日>>
「パバロツテイ!!! トゥーランドット」

私が、アトリエで制作する際、彼の歌声が流れている時は、ご機嫌の時だ!
イタリアへの憧憬と思い出が交錯し不思議と
力がみなぎり筆が進んでいる時だからだ!(安徳談)

掲載写真:歌うパヴァロティ