Antoku Akira (1940~1996)
1940年 上海に生まれる
1944年~59年  熊本市内に育つ
1961年 熊本市立藤園中学校卒業
1959年 熊本県立済々黌高等学校卒業
1948年~59年 海老原喜之助に師事
1963年 東京芸術大学油絵科卒業(伊藤廉教室)国画会に出品始める
1965年 東京芸術大学大学院絵画研究科修了
1967年 新人選抜展、神奈川県展(84年)
1969年~70年 CWAJ版画展
1970年 版画グランプリ展
1971年 大橋賞記念展(76年)
1975年 安井賞展(82年、84~87年、91年)
84年及86年 賞候補 
1976年 日韓美術交流展
1977年 ロータリアン賞候補作家展
1982年 明日への画家達展(~86年)
1983年 明日への具象展(~85年)
1984年 日本青年画家展(~85年)
О氏記念賞基金参加作品展、子供の情景展
1985年 武蔵野美術大学講師となる(~95年)
1986年 東京芸術大学講師となる(~89年)、現代具象展
1987年 ヴェニス展、日仏作家四人展
1988年 日本洋画の現在と未来展
1989年 AUBE展(~90年)
1990年 フェーマス25周年記念展
1991年 両用の眼展(~92年)
1993年 絵画の今日展(95年)
1996年    2月1日 肺癌のため死去 享年55歳

個展:
1965~66年   スルガ台画廊(東京銀座)
1969年     版画個展 梅花亭(東京)
1971年     版画個展 美術出版社ロビー(東京)、
        シロタ画廊(東京・銀座)
1975年     坂崎乙郎氏企画個展・紀伊国屋画廊(東京・新宿)
1983年     西武デパート画廊(東京・池袋)
1984年     画廊シェーネ(東京・保谷市)
1985年     三越本店美術画廊(東京・日本橋)
1988年     初画集”街・丘・風・・戻り来る日々”発刊記念展
         ・画廊シェーネ(東京・保谷市-現・西東京市)
         ・松坂屋本店美術画廊(名古屋)
         ・大丸梅田店美術画廊(大阪・梅田)
         ・鹿児島三越美術画廊(鹿児島)
1990年     もりもと画廊(東京・銀座)、たけうち画廊(新潟)
1990~91年   第二画集”風よ!丘よ!”発刊記念展
         ・熊本鶴屋百貨店美術画廊(熊本)
         ・画廊シェーネ(東京・保谷市-現・西東京市)「小品展」
          及びアートセンター展示場(東京・銀座)
         ・大丸梅田店美術画廊(大阪・梅田)
         ・鹿児島三越美術画廊(鹿児島)
         ・松坂屋本店美術画廊(名古屋)
1991~93年    三越本店美術画廊(東京・日本橋)
         三越(大阪・仙台・松山巡回)
1993年     網走市立美術館(北海道・網走市)
         画廊シェーネ「ドローイング展」(東京・保谷市-現・西東京市)
         大丸梅田店美術画廊「ドローイング展」(大阪・梅田)
1994年     「ドローイング展」三越本店美術画廊(東京・日本橋)
1995年     第三画集”四天の譜”発刊記念展
        ・熊本鶴屋百貨店(熊本)
        ・鹿児島三越美術画廊(鹿児島)
        ・松坂屋本店美術画廊(名古屋)
        ・大丸梅田店美術画廊(大阪・梅田)
        ・画廊シェーネ(東京・保谷市-現・西東京市)及び
         鹿友アートサロン(東京・京橋)
その他グループ展多数

受賞など:

1963年     大橋賞
1965年     国画賞
1966年     国画会会友推挙
1974年     国画会会員推挙

公的コレクション:
1993年     網走市立美術館

著書:
筆でデッサンする(美術出版社)、とり(福音館)、
ぼくらは海へ(偕成社)、マンモスの悲劇(岩崎書店)
きかんしゃホブ・ノブ(福音館)、他多数

“ 形成の画家、安徳 瑛 この稀有な魂は、決して眠らない! ”
1月30日、その日が最後の面会日となった。
生涯忘れることの無い数分間であった。
病床の安徳は、ベッドの縁に腰をかけ、
身体全体で大きく苦しげな息を吐き、
いつにない早口で喋ろうとした。その姿は尋常で無く、身を乗り出す安徳の膝に触れて、私は愕然として言葉を失った。
そぎ落とされた肉の向こうには、ただ弱々しい
棒のような骨がある だけであった。
「こんなひどい目にあったのは、初めてだよ、、、
僕は必ず元気になって絵を描くから、、
今、アイデアが一杯あるんだ、、」
その瞬間、安徳の瞳が輝いた、、
2日後の2月1日深夜、息を引きとった。55歳であった。

写真は、1991年11月【 鹿児島・櫻島の朝日を錦江湾岸から見つめる作家 】

 画家、安徳 瑛は、自己の内的衝動や認識の変化に棹差しつつも情に
流されず、緊張ある統一した画面の実現にむけて(それは、作家の
遠い記憶の中の普遍的な造形を確認する作業でもあった)
常に創意と工夫を重ねた。がその創意に溺れることは無く、
最後まで柔軟な思考と制作欲を持ち続け、その生涯を閉じた。
絵画の限定された平面性の枠の中で、その制約を超える深い表現を
模索し続けた今日実に数少ない、真っ当な画家であった。
今後、作家の遺した作品や詩、散文、絵画論などが検討され、
「安徳 瑛の作品と生涯」を詳らかにしたものが刊行されることが
望まれる。その時には、この優れた画家に関し、
さらに理解がすすむものと思う。

 安徳 瑛の作品を、私は概観して8つの時代に分けて考えている。
第1期は、1960年代前半の初期作品群(かって私が出版した安徳 瑛の初画集
編集後記でも述べたが、特に1980年代以降の作品の骨子とみなせる)の理性的
かつ直感的な 「抽象的フォルムと色面の時代」である。
次は、1960年代後半から70年代 前半の30才前後の時期で、
暗中模索の日々を送り、銅版画の制作にも没頭した「シュールやポップに学んだ時代」
そして第3期は、1970年代後半までのリアリズム的具象回帰と
動線思考の
「黄色の時代」である。
第4期は、スペインとフランスへの旅行が転換の契機と なったと自ら語る
80年代初頭の
「白とスクラッチの時代」
さらに1983年頃から始ま った 第5期は、一般に安徳の俯瞰構図として
知られる
「多視点の時代」で、この時期から 安徳 瑛の世界は、
飛躍的展開を見せ始めている。次の第6期は、1990年から91年 の前半にわたる「叙情的造形の時代」(安徳画集その2)、続く93年までの第7期は、
「統一ある黒の時代」 へと移り、次第に内省的な表現が顕著になってくる。
そして94年から95年の最後の一年 となった第8期は、
天恵といっても過言ではなく、完成度の高い、
いわばこれまでの道程は いよいよここに帰結してきたのかと
首肯させられる「せめぎあう白と黒の時代」(安徳画集その3)
に入りその幕が開き始めたところである。

 安徳 瑛の存在意義は、究極の造形をつかむための
この変遷過程にこそあって
多様な 画風の制作途上で
顕著に見せた、画家としての
好奇心旺盛な精神と憎めない魅力ある人間的 側面が作家の周辺に
おのずと人を集めた。
また個人主義を標榜する教育者としての一面は、
偏った見方を戒め、好き嫌いを問わず優れた点を正しく評価しようと
する鷹揚で寛大な画家の態度を明白に提示したことにあると、
私は考えている。絵画性重視の作家の姿勢が、ときに文学的思考、
情緒的思想を尊ぶ一部の識者から誤解を
招き、画家として十分恵まれたと必ずしも言えなかったことは、
なまじの様式に縛られ、却ってその知られたスタイルに
固執するために自らをひとつの型にはめることで、自己模倣に陥る愚を
繰り返さざるを得ない多くの凡庸な画家たちとは、
少なくとも安徳 瑛を別個の存在に成さしめたと思うのである。
権力や通常の見方に動ぜず、自らの裡にある造形を見つめ続け
じっくりと熟成させてき たこの稀有な魂は、決して眠ることは無い。
死してなお時代の経過と共に、多くの理解者が増えてくることを
ひたすら望むのは、私一人では無いであろう。

1996年3月  フェーマス6月号「安徳 瑛 追悼号」投稿文を一部修正
 

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