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展覧会によせて
The Greeting to The Exhibition


画廊シェーネ 店主 奥田 聰 敬白
Galerie Schoene OKUDA Satoshi





平澤 重信 個展によせて
“平澤の赤、平澤の緑青”(6/15〜7/1)

 

 およそ自然界の人間を含む動物達が持ち合わせる「視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚」の5感と
いわれるものについては、各動物達が天性固有に持つ優劣の差はあるにせよ、人間も動物も一応
等しく神から付与されている。この点では、動物と人間を峻別する手立てが無い。

 例えば聴覚について言えば、サイレンの音を聞くと我が家の近所の犬達は一斉にけたたましく叫び、
不安をさそう。軽快な音楽を聞かせるとインコの類の鳥達は、音楽に併せて鳥篭の中を激しく飛び回る。
臭覚、味覚、触覚についても好き嫌いは別にしても、良い香りと嫌な香りを峻別するし、
旨いものは、やはり多くの動物達も旨いと感じる様である。
触覚についても同様で、自分の気に入った相手が触れて来るような場合には、
大概警戒心を解いている。

視覚についても基本的には、変わる処が無いが他の4要素と大きく異なる点がある。
一般に動物達は、自らの眼や声や耳、羽根や爪や角やくちばし
などの5要素をつかさどる身体的特質を生かし道具として利用し、
自らの生活の糧となるものを創造することは出来る。
しかしながら、眼で見たものを記憶し、描くことによって再現して見せるという行動は、
人間に唯一与えらられたものである。
(カワセミが、釣り人の疑似針などを利用して魚を釣る様子を見て、
葉を浮ばせて葉に寄って来る魚を捕らえるという行動を見たことがある。
これは、視覚を使って人間の行動を記憶し再利用した珍しい例であるが、
厳密には描く行為とは言えないだろう)

 人間が、他の4要素を駆使して感じたものを頭脳を使って想像し、
眼でみた通りに再現したり、新しいものを創造出来る能力こそが、
神が人間にお与えた下さった知恵という最も優れた知的な所産なのである。

 前置きが多少長くなったが要するに、人間のみに付与された絵を描くという行動をとる時、
人間は最も人間らしい時間帯を過ごせるはずなのである。
だからこそ子供の頃は皆誰でも、親の指図を特別受けなくても、黙って自らの脳裏に浮んだ造形を
紙に描くことで満足していたのだ。それを周囲の小賢しい大人が、旨いだの、
ここが違うだのと云ったり、よその子と比較するものだから、たいていの子は、
絵を描くことが嫌いになってしまい、さらに子供の知性の発展をも阻害することになるのだ。

 平澤の作品を見ると、いつもこの絵を描くと云う原点を思い起こさせるのである。
平澤の作品は人間のみが持つ絵を描く行為に最も素直に向き合っている。
自らの脳裏に浮ぶ様々な形象が、長い月日の間に千変万化して複雑な情感を抱えながら消えては浮び、
より高度な知性で書き直すことはあっても自らの生活実感を膨大に誇張する必要も無く、
有りのままの等寸大で描いていく姿勢を終止貫いている点を、私はいつも好感を持って眺めて来た。

 平澤作品に描かれた次元は、平澤の裡にある現在なのである。
獣医でもある平澤は、絵の中にしばしば動物を登場させる。
常日頃眼にする人間の喜怒哀楽の日常を、動物たちの姿形の中にも投影させるが、
それは時として平澤自身の内面でもあるのだ。
今回の作品でいえば「無言」「彼方へ」「NEKOをまつ日」「夢を追う者」などにみられる
“孤高の人物”のように凝視する視線や徘徊する姿、又「卓上のNEKO」「忘れていた日に」
「7月のカタツムリ」のように穏やかな精神の日々を感じさせる作品、いずれも秀逸で
皆動物を描いているが実は自らの実感を表している。
    
 さらに平澤の作品には、哀感のただよう人物がよく登場するが、今回も「顔」「揺れる6月」
「8月の彼方」などこんな人物にひょっとして出会ったら、そっと手をさしのべたくなりそうな
そんな気にさせる平澤の天性の詩的な部分が十二分に生かされた佳作である。

 人物や動物を点景にして平澤の脳裏に浮ぶ、好きなものを、そう丁度幼児が一心不乱に鼻歌を
歌いながら描いている時のように、最も平澤的な典型作品といってもよい作品が、
「いつかみた風景」であり「初めての場所」である。
 
 特筆したいのは「Tea・Pot」と「知らないところへ行く人」である。
二つとも摩訶不思議な絵である。このティーポットは、誰の為に湧かすものなのであろう。
このポットの囲わりには、まるで時計の文字のように鳥や木、犬や人物そして訳の分からない物が
取り巻いている。ポットがぐるぐる廻って止まった先の口の指す方向に何やら意味がありそうで
占いのカードを見ているような気になって来る。
 そしてこの首から下が羽根の足になっている人物はいったいどこへ向おうとしているのであろう。
足が軽い羽根になっているのでさぞかし気軽で、何所へでも飛んでゆけることだろう。今くぐろうと
しているアーチの先は、きっと楽園なのかも知れない。

 人物や動物の姿が消え建物を中心に描いた「朱の午後」「思い果てぬ午後」「流れゆく日」
などの作品は、平澤自身の感性を抑制し造形思考を優先させた分、物静かな作品になっているが、
むしろこれは平澤自身の休息を意味しているようだ。

 今展では、平澤の赤を中心にした作品が多いが、その赤を補完する平澤の緑青は、
随所に効果的に配置され使われているが「8月の傾斜」「訪問者」のようにその関係が
逆転して表現されている作品もある。


 平澤の内面に潜む最もプリミティブな絵を描く楽しみや喜びを敢えて赤と云う色で
たとえるならば、平澤自身が幼児体験から重ねて来た詩的なものへの憧憬と育まれた知性は、
平澤の緑青と云われるカドミウムグリーン系列の色彩の中に凝縮されていると言って良いだろう。

 長い年月に渡って奇を衒わず、深刻にも大仰にも傾かず等身大のまま、
感じるままにリアリティ溢れる作品を制作し続ける天衣無縫の詩人画家、平澤 重信の魅力を
今展を通して尚一層深く味わっていただければこの上ない喜びである。

                          2001年6月 梅雨の頃
                               

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